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練馬区の中心
練馬区は東京23区の中で一番新しくできた区で東京都の中央部の北側に位置しています。
武蔵野の面影を今に残し、農地面積は23区no.1で自然が多く住みやすい場所と言えます。


練馬区基本情報
日本
地方 関東地方
都道府県 東京都
面積 48.16km²
人口密度 14,880人/km²
隣接自治体 東京都 : 中野区、杉並区、豊島区、板橋区、武蔵野市、西東京市
埼玉県 : 朝霞市、和光市、新座市



練馬区の世帯と人口(平成23年10月1日現在)
世帯数
(外国人世帯除く)
335,761 世帯
総人口 708,441 人
住民基本台帳による区の人口 男 342,648 人
女 352,622 人
計 695,270 人
外国人登録人口 男 5,729 人
女 7,442 人
計 13,171 人
高齢者人口比率(65歳以上) 19.7%
(1月1日現在)


区名の由来
○関東ローム層の赤土をねったところを「ねり場」といった
○石神井川流域の低地の奥まったところに「沼」=「根沼」が多かった
○奈良時代、武蔵国に「のりぬま」という宿駅があった
○中世、豊島氏の家臣に馬術の名人がおり、馬を馴らすことを「ねる」といった
などの諸説があり、定説はありません。


練馬区の歴史
練馬に人が住み始めたのは、およそ1万5000年前の先土器時代からとされています。
区内のあちこちからは、そのことを物語る遺跡がいくつも発見されています。
14世紀半ばごろ、荒川河口に勢力をもった豊島氏が石神井川に沿って領地を広げ
やがて練馬城や石神井城を築きました。以後文明9年(1477)に太田道灌に敗れるまで
豊島氏の支配が続きました。
その後は太田氏、さらには北条氏の勢力下に置かれ、徳川氏の時代へと移り変わりました。
江戸時代の練馬は、ダイコン、ゴボウ、イモなどを江戸市中に供給する一大近郊農村として発展しました。
今ではほとんど暗きょとなっている千川上水は、徳川幕府によって元禄9年(1696)に開発されたもので
当時の練馬の農業にとって貴重な水資源となりました。
明治に入り、明治11年(1878)の「郡区町村編成法」により、練馬の大部分は北豊島郡に編入されました。
大正12年(1923)の関東大震災後、都心部から練馬の人口流入が始まりました。
昭和7年(1932)に東京市は35区制となり、練馬は板橋区に編入されました。
第二次大戦後の昭和21年(1946)、練馬地域の町会長、区会議員、各種団体長が全員協議会を開催し
練馬区設置を決議し板橋区の一部だった旧北豊島郡練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村の区域が
1947年8月1日に分離して新たに練馬区として発足しました。


練馬区の地勢
位置、面積
練馬区は、東経139度33分48秒から139度40分48秒、北緯35度42分41秒~35度46分に位置しており、東京都23区の北西部にあります。練馬区役所の位置は、東経139度39分8秒、北緯35度44分11秒になります。
北東から南にかけては板橋区、豊島区、中野区、杉並区に接し、西から南西にかけては西東京市、武蔵野市との境をもち、北は埼玉県の新座市、朝霞市、和光市に接しています。
練馬区は東西約10キロメートル、南北4~7キロメートルのほぼ長方形をしています。その面積は48.16平方キロメートルで、東京都総面積の約2.2%、23区の総面積の約7.7%に当たり、23区の中では、大田区、世田谷区、足立区、江戸川区に次いで5番目の面積を有しています。
地形
練馬区は、ほとんど高低差のないなだらかな地形をしています。地盤高でみると、西側が高く東側へ行くにつれて低くなっており、水準基標によると、関町北四丁目(石神井高校内)で海抜54.04メートル、羽沢三丁目(開進第四中学校内)で26.10メートルとされており、平均すると30~40メートル程度の起伏の少ない台地状となっています(資料:東京都土木技術研究所・水準基標測量成果表)。この台地は武蔵野台地と呼ばれる、青梅市を頂点とする扇状地のような洪積台地です。
地質
練馬区の地質は、地質年代からみると比較的新しい時代に形成された地層で、台地は洪積層、低地は沖積層からなっています。洪積層は、上部の関東ローム層、中部の粘土砂の互層、下部の砂れき層から構成されています。
武蔵野台地の表面は、ローム層で厚く覆われていて水を得ることが困難ですが、ローム層の下には水を含んでいる粘土と小石の累層があり、そうした層が谷の底、谷の側壁、段丘の崖の下などに露出して湧水(ゆうすい)となります。
三宝寺池、富士見池や井頭池(弁天池)は、こうした湧水からできた池になります。(資料:昭和44年練馬区地下水調査報告書)。